Happy Happy New Days 中編


怠い。
身体のあちこちが、鈍い痛みに悲鳴を上げている。
だが、その痛みは彼が残した喜び。何を否定することがある?

三成は半覚醒の微睡みの中、そっと腕を伸ばす。だが、そこにあるはずの温もりはなく、冷たくなりかけたシーツの上に残り香だけが漂う。それが、彼がいた証だった。
二三度、そこを叩いて彼がいるかどうかを確かめてみるが、腕は空しくベッドの敷布を叩くだけであった。
眠りの泥沼に引きずり込まれるのを抗う様に、彼がどこに行ったのかと茫洋とした思考を巡らす。と、漸く数分程前の味気ない会話を思い出した。

「あぁ……、仕事か」

昨晩の名残のためか、ひどく渇く喉をひくつかせながら三成は呟く。
水が欲しかったが、暖かいベッドを出てキッチンまで出向くのも億劫だ。この場に彼がいたら、何も云わなくても自分が何を求めているのかを察して、笑いながら冷たい水を差し出してくれるだろう。
だけど、求める姿は今頃電車に揺られている。その先にあるのが、自分がまったく知らぬ彼がいる場所だと思うと、何だが妙に心の隅がモヤモヤとしてくる。

「つまらん……」

それが意味する子供染みた妬心を打ち消す様に言葉にして吐き出すと、三成は睡魔に従って不貞寝をすることに決めた。





意識は、夢現を彷徨う。
何もかもが溶け出しそうでとても心地よい。

だが、眠りの淵をフラフラとしていた意識は急激に現実へと傾いていく。
最初にはっきりと覚醒をしたのは、鼻であった。次に耳。最後に空っぽの胃が抗議の声を上げて三成は目を覚ました。

鼻腔を擽るのは、ベーコンが焼ける香ばしい臭い。耳に聞こえるのは、ジューッという油の弾ける音とキッチンを騒がす雑音。それに混じって調子の外れたヘタクソな鼻歌も聞こえてくる。
身体の覚醒に追いつかない思考が「?」を飛ばしていると、再び胃袋が急かす様に抗議をしてくる。
三成は、その声に促されるようにノロノロと起き上がった。



ドアを開けてソロリとリビングを覗き込む。
それを目敏く見つけた鼻歌の主が笑顔を向けた。

「あぁ、起こしちゃいました? 朝食、もうちょっとでできるけど食べます?」
「……………………」
「三成さん?」
「…………なんで、左近がいるんだ?」

確か左近は、朝、「行ってきます」と声をかけて出掛けて行って、夕方まで戻らないはず。なのに、当人は目の前で下手な鼻歌を歌いながら朝食の準備をしている。
起き抜けの思考の鈍さを疎ましく思いながら、三成は形のよい眉を寄せ小首を傾げて左近を見上げる。
その半分寝ぼけた目元といい。若干、寝癖がついて乱れた髪といい。普段の理知的な雰囲気は、微塵もない。その子供っぽく様が、左近の笑みを誘った。
口元に広がる満面の笑みを隠すことなく、左近が口を開く。

「三成さんと一緒にいたくて、会社、サボりました」
「…………」

至極あっさりとした答え。三成がそれを理解するのに十秒程の時間を必要とした。





厚切りのベーコンにボイルされたソーセージ。その横には綺麗に円を描く目玉焼きが盛り付けられている。一人前のサラダ皿には、瑞々しいレタスや色鮮やかなプチトマト。味付けは、馴染みのお手製ドレッシング。
そして、猫舌の三成のために少し冷ましたトーストには、たっぷりとストロベリーのジャムがかかっていた。
いつもながら、左近の手際の良さに内心ひどく感心する。
「ひとり暮らしが長かったから」と左近はいうが、どんなにひとり暮らしが長くとも、できない人間には決して真似はできない。じつは、決して真似ができない筆頭が自分だったりするのだが、それは悔しいから口にはしない。

三成は冷えたミルクを口にしながら、

「左近も会社をサボるとは子供みたいだな」

と口を尖らせる。
ただ、それは照れ隠し。本当は、左近が行ってしまった後の何とも云えない物寂しさと、自分と一緒にいたいがために戻って来てくれた嬉しさを尖らせた唇と無愛想な口調で覆い隠す。
だが、そんな稚気も左近の慧眼にはお見通しだったようだ。

「ええ、誰かさんのお陰でね」

笑顔で軽く受け流されてしまうが、なんだかそのひとつひとつがとても居心地がいい。しかし、素直でない舌は「俺のせいにするな」と不満げな言葉を紡ぎ出す。
そして、左近は「相変わらず、天邪鬼ですね」と、クツクツと優しく笑う。

この数日間、ずっと繰り返す他愛ないやり取り。それがとても嬉しくて綻びそうになる口元。
それを誤魔化す様に、三成はジャムの乗ったトーストを口に運ぶ。舌の上に広がる甘さは、まるで今の自分の気持ちの様だ。
口に出しては決して云えない。だけど、きっと目の前の恋人も同じ気持ちだと確信できた。





食後の濃いめのコーヒーを入れる頃には、完全に目を覚ました街は午前の喧噪に包まれていた。
遠くにその音を聞きながら、ふたりはリビングのソファの上で淹れ立てのコーヒーの香気を楽しんでいる。左近はブラック。三成は角砂糖をふたつにミルクをたっぷり。

時計に目をやれば、時刻は10時と半を少し回ったところ。何をするにしても早過ぎるという時間ではない。

「ところで、今日はどうします。もう一度ふたりで昼寝でもしますか?」
「そろそろ、そういう訳にはいかないだろう」

吐き出される極々小さな溜息。そこには微かな寂しさが滲み出る。
三成は、目覚めた街を眺め遣ると、手元にあったリモコンでテレビのスイッチを入れる。
今まで一度も付けることがなかったニュース番組。それにチャンネルを合わせた途端、画面の中に見慣れたアナウンサーの顔が映った。そのアナウンサーが、伝えるのは時季のニュース。「仕事始め」に追われる人々の忙しない日常の一コマ。
その瞬間、三成は堰き止められていた日常が自分たちに追いついたような気がした。


左近が出勤した後からねっとりと纏わりついていた物寂しさの正体。
終わりを告げたいばら姫の魔法――――
堅く閉じた茨の檻が開く。甘く優しい微睡の時間は終わりを告げ、日常に戻る準備をしなければならない。


「そうですね。残念ですけど……」

ぼんやりとニュース画面に見入る三成の横顔を見つめ、左近も少し寂しげに呟く。と――――

「丁度、頃合いですな。これ以上、三成さんと二人っきりで引き篭もっていたら……」

左近は、そっと三成の肩を抱いて自分の方へ引き寄せる。

「本当にあなたを監禁して、誰の目からも隠してしまいたくなる」

三成の耳朶に舌先が触れる程近くで優しく低く囁いてやる。
その瞬間、沸騰したように三成の耳が鮮やかに染まる。
眉間の皺を深くして左近を睨み上げる頬も、冬の木枯らしに吹かれた時の様に真っ赤に染まっている。最も、三成の耳に吹き込んだのは、春の陽気の様な甘い言葉なのだけれど……

「……このド変態」
「ド変態って…………」
「変態じゃなかったら色魔じゃないか。どっちにしても、左近に監禁されたら身が持ちそうにないから遠慮しておく」
「おかしいですねぇ。俺はとても優しくしてあげたつもりなんですけど?」
「ど、どこがだ! お前のせいで、かなり身体がダルイのだぞッ!!」
「ほう、どの辺りがダルイので? 次の参考にしますので、具体的に教えて下さい」
「ッ!? や、やっぱり左近は変態だ!!」

三成は、プイッとそっぽを向いて口唇を尖らせる。そんな三成を左近は抱き締めて、柔らかく腕の中に閉じ込めてしまう。
まるで、開いてしまった時間の檻を惜しむかの様に――――

「変態で結構。こんな気になるのは、あなただけですよ」
「ふん。俺だけというなら…………まぁ……いいか」

恥ずかしげに目を逸らしながら、腕の中の人は独り言のような呟きを洩らす。
囚われ人のその呟きにひどく気をよくした左近の相好が思い切り崩れた。

「ふーん、よろしいので? それなら、今回は差し控えていたあれやこれもOKというわけですな。なら、ご期待添えるよう、今夜辺り趣向を凝らしたプレイをしてみますか?」
「……プ、プ、プレイ?」
「そうそう」

なぜか非常に上機嫌な左近。反比例して顔色が赤から青へと色を塗り替える三成。

「さ、左近の阿保ッ! 変態ッ!! 色欲魔ッ!!!」

腕の中で暴れだした三成に構わずに、左近はギュッと痩身を思い切り抱き締めた。





2007/01/10